june29: 政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう by 小野ほりでい
この一件は、要するに「センシティブな問題で炎上したくなければセンシティブな問題に触れなければいい」という最悪の最適解が、特別な条件が揃ってたまたま露呈したのに他ならないのだ。
とどのつまり「弱者の存在を厳密にポリティカリーに表現せよ」という要求は、最終的には「弱者の存在に言及するな、見ないようにしろ」という「弱者への配慮」とは対極にあるイデオロギーに接続してしまうのである。
これは、何か保守的なイデオロギーが意図的に「無思想」を纏う場合だけでなく、「無思想」という自認が無自覚のうちに保守的なイデオロギーを体現する可能性を示している。「思想の話をやめてください」という呼びかけは思想ではなく、ジェンダー論は思想である、という差異は、既存のジェンダー観はイデオロギー的ではなく、それに疑問を投げかける視点はイデオロギーであるというギャップを出発点にしている。この例のように、「イデオロギー的な論争はやめて」「犬や猫がかわいい、マンガやゲームが面白い、という穏便な会話に終始しましょう」というノンポリな呼びかけは、本質的にフラットではなく「既存の構造の側に立った」イデオロギーであるというふうに考えられる。
たとえば、「この国に差別はない」とか、「差別がないかのように振る舞え」、「差別ではないものに言及せよ」という態度は、差別に対して「フラットな立ち位置」ではあり得ない。黙認は肯定の消極的表現である。
「無思想」や「言及しない」という態度は、結果的に「既存の構造の側に立つ」というスタンスになり得るという指摘。なるほどな〜と思った。
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ぼくも「センシティブな話題には言及しないのが吉」という考えをもって自身のソーシャルメディアのアカウントを運用してきた自覚がある。この態度は既存の問題を固定化する側に票を投じているのかもなあ、と思うと薄暗い気持ちになる。 今後、どのようなスタンスで生きていくのが自分にとってベストかなあ、と考えさせられる契機となった。
とはいえ、センシティブな問題について自分の意見を述べるにしても、その場所としてソーシャルメディアは選択しないだろうなあ。残念ながらソーシャルメディアは意見を交わすのに向いていなさすぎる。特定の派閥のセレクティブ・エネミー狩りに巻き込まれるのは百害あって一利なし。日記を書いているここの Scrapbox に丁寧に書くなどしていくのがよさそう。